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荒岱介さんが亡くなった…     鈴木邦男氏の追悼文

2011/05/09 鈴木邦男


http://kunyon.com/shucho/110509.html

①大学の時は、毎日のように激突してたのに。



元・戦旗派代表の荒岱介(あら・たいすけ)さんが亡くなった。5月3日(火)のことだ。体調を崩している、とは聞いていたが、危篤だとは思わなかった。65歳だった。若かったのに。何とも残念だ。

僕は大学時代から知っている。同じ早稲田だし、荒さんはブント(社学同)を率いて、雄々しく闘っていた。僕は右翼学生で、いつも激突していた。圧倒的に彼らの方が強い。数も多いし、社学同は体のデカイ、武闘派が多かった。

だから、激突しても、こちらはいつも撃破されていた。荒さん自身も、180センチ以上あるし、武闘派だ。そして論客だった。なんせ、早稲田では、「組織された暴力を!」と叫んでいた。学生・人民の暴力は全面的に認め、それを組織化して、権力抵抗しよう。そして、革命を!というのだ。「組織暴力」といったら、暴力団・ヤクザと誤解される。でも、荒さんは、「勝手に誤解しろ!」と思ってたんだろう。自分たちだって、革命的暴力団だ、と思っていたのだろう。

大学で激突した日々が続き、それから25年が経ち、再会した。初めは、田宮高麿さんの「お別れ会」(1996年)の時だった。田宮さんは、1970年によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派9人のリーダーだ。

同じ早大で闘った

その時は、荒さんとは、「久しぶりです」と挨拶しただけだった。昔の敵とバッタリ会って、何か、気まずいというか、ぎこちない感じだった。この時、木村三浩氏も紹介した。

ところが、それから、ロフトプラスワンなどで一緒にトークすることが多くなった。木村氏も何度も出た。さらに僕は、荒さんのブントの集会にも呼ばれた。新左翼の非合法路線は清算し、市民運動として生まれ変わっていた。だから宮崎学さんを初め、多くの人を呼び、討論会をやったのだ。そこに何度か呼ばれた。「市民運動」といっても、圧倒的に、元活動家が多い。革命の志を持った人々だ。私なんかを呼んだんでは反対も多いだろうと思った。

「右翼反動の鈴木を呼ぶくらいなら、俺たちは辞める」と言う人もいたという。「じゃ、辞めていい」と言って、集会を強行した。荒さんが言っていた。申し訳ない。私ごときを呼ぶために、昔からの同志を切ったのだ。


さらに、荒さんとは、別冊宝島の『左翼はどこへ行ったのか』で対談している。08年に。それは今でも手に入る。私にとってもいい記念になった。

又、荒さんは、野村秋介さんとも会っている。それも府中刑務所で。そのことを、『監獄ロック ロウソクの焔を見よ』(彩流社・08年)で、詳しく書いている。この本を本棚から探して、手に取ってみた。アレッ、本の帯にも、書いてるよ。野村さんのことが…。「過激派の“祭り”の記録」として…。

〈監獄で民族派の野村秋介と過激派の荒岱介が同じ土俵に。刑務所最大の祭典・運動会で協力し勝利…。獄中での心の旅路を描く〉

②野村秋介さんとの感動的な交流。



これは貴重な〈獄中文学〉だ。獄中文学といえば、『天皇ごっこ』の見沢知廉氏を思い出す人も多いだろう。獄中で、連合赤軍の幹部や、金属バットの一柳氏や、いろんな人たちと会い、その交流が書かれている。

「運動会」では、一柳氏も連赤幹部も皆、一所懸命に頑張る。『囚人狂時代』『獄の息子は発狂寸前』などに、実に生き生きと、面白く描写されている。

実は、見沢氏は、一水会に来る前は、戦旗派にいた。荒さんの下で闘っていた。設楽秀行氏も戦旗派にいた。又、ロフトでよく会うが、早見慶子さんや、深笛義也さんも戦旗派にいた。多くの人材を産みだしているんですよ。戦旗派は。

かつて戦旗派といえば、成田闘争で名を上げ、又、皇居に火炎弾を発射し、全国の右翼の車が殺到した。あの頃は、私らも「許せない!」と思い、抗議に行った。ともかく、新左翼の中でも、最過激派だった。ところが、ある日、過激派をやめて、「市民運動」に変身する。そして、右翼も、サブカルも呼んで、シンポジウムをやる。荒さんは、どんどん本を書き、ロフトでもトークをやる。

『監獄ロック ロウソクの焔を見よ』

「鈴木さんや一水会の動きに刺激されたんですよ」と荒さんは言ってくれたが、そんなことはない。向こうは圧倒的に多いのだし。なんせ、仲間から市会議員も出している。

集会は、社会文化会館などでやっていたが、いつも満員だった。本人たちは皆、素顔で、堂々と市民運動をやっている。ところが、公安はいつまでも、「過激派扱い」だ。

100人以上も公安が張り付いて、写真を撮っている。それに公安はサングラス、マスク、フード付きジャンパーで、顔を隠している。こいつらの方がずっと「過激派」だ。胡散臭い。そのくせ、「何で右翼の鈴木が来るんだ」と言って写真を撮りまくっている。「この野郎!」と思い、こっちが襲撃しそうになった。

③よど号の田宮さんが会わせてくれた。


荒さんが亡くなったのは、木村三浩氏から聞いた。5月2日(月)の夜だった。『情況』の人から木村氏は聞いたという。「爽やかな人でしたね、スケールの大きな人でした。ロフトで何度か、一緒にトークさせてもらいました」と言う。「残念です」と言う。

木村氏は、田宮高麿さんの「お別れ会」(1996年)で初めて荒さんと会ったのだ。この時、木村氏を荒さんに紹介した。そうだ。その後、「よど号」グループの田中義三さんにも荒さんを私が紹介した。「紹介した」というのは変だな。2人は前からの知り合いだから。

田中さんは、タイで裁判を受け、その後、日本に帰国して、「よど号」事件の裁判を受けた。その時、私は、「弁護側証人」として、田中さんを弁護する証言をした。面会にも何度も行った。

その時、「昔の仲間が来てくれない」と言っていた。「荒さんに会いたい」と言うので、連絡をつけて、小菅に一緒に行った。2人は実に楽しそうに話をしていた。

同じ運動をしていた仲間だ。羨ましくなった。革命の話だけではない。「あの時の彼女は、どうした?かわいかったな」といった話もする。隣にいて笑ってしまった。

そうだ。懲役12年の判決が出たばかりだったんだ。「これから12年だよ。キツイよ」と田中さんは、つい漏らしていた。運動の先輩として、普通なら、「でも頑張ってくれよ。体に気を付けてな」とでも言うだろう。ところが荒さん。



「何言ってんだよ。12年なんて、アッという間だよ」。

これには驚いた。田中さんも呆気にとられて、「人のことだと思って、簡単に言うなよ」と。そして2人で爆笑。いいですね、同志愛ですよ。

ところが、田中さんは、刑務所で亡くなった。荒さんも亡くなった。「アッという間だ」と言ってたのに、なんだよ。と荒さんに文句を言いたい気分だ。

荒さんの訃報は、産経新聞(5月4日付)に載っていた。他にも載っていたと思うが、産経では、こう出ていた。

荒岱介氏(あら・たいすけ=元共産主義者同盟議長)3日、前立腺がんのため死去。65歳。
 昭和40年に早稲田大に入学。共産主義者同盟(ブント)の学生組織・社会主義学生同盟に参加、学生運動の活動家に。社会主義学生同盟委員長にも選ばれ、40年代の三里塚闘争や東大安田講堂占拠では、警察当局から取り締まりを受けた。日向翔などの名前で知られ、執筆活動も行った。著書に「マルクス・残された可能性」など。

荒さんの著書には、野村さんとの交流を書いた『監獄ロック ロウソクの焔を見よ』(彩流社)。それに、『破天荒伝=ある叛逆世代の遍歴』(太田出版)。そして、『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書)などがある。今でも手に入る。又、私との対談が収められている『左翼はどこへ行ったのか』は、今、宝島文庫に入って出ている。

④連合赤軍よりもソ連崩壊の方がショック…。



この対談は、08年に宝島社で行った。「ここの社長も昔、早稲田で学生運動をやってたんだよな」と2人で話し合いました。あれだけ盛んだった新左翼が、なぜ、衰退したのか。そのことについてトコトン話し合った。

連合赤軍が左翼崩壊の原因だと私は思ったが、「いや、それよりも内ゲバだ」と荒さんは言う。党派間の内ゲバに巻き込まれ、さんざん苦労してきた。だからこそ言えることだろう。

又、「ソ連崩壊」も大きかったという。「反帝反スタ(=反帝国主義・反スターリン主義)」なんだから、ソ連が崩壊しても気にならなかったと思ったが、違ったのだ。

「反スタ」を言ってたんだから、ソ連が崩壊したら、「ほら見ろ。俺たちが言ってたことが正しかった」と、喜んだと思った。しかし、違うんだね。荒さんはこう言う。

〈もちろん、新左翼はソ連のスターリン主義を厳しく批判してたけど、それでも現実の共産主義国家の存在は大きかったんですよ。スターリン主義は間違っているが、国として共産主義が成立しているかどうかは大きい。まず国として成立しているから、それのよしあしは別にして、議論の前提となるわけです。国がなくなると、語ることがなくなってしまう〉



ウーン、そういうものか。と、私は聞きました。さらに、こんなことを言う。

〈たとえば鈴木邦男さんが実在するから、右翼運動を評価する…という人がいたとしても、鈴木さんが完全に思想転向して違う場所に行ってしまったら、支持者は何も語れなくなる。それと同じですよ。ソ連と東ヨーロッパがことごとく崩壊していったのは大きかった〉

ウーン、分かりやすいとたえのようだけど。「私の崩壊」によって何が生まれたか。どうなんでしょう。

⑤ロープシンの話で意気投合!



そうだ。野村さんの話だ。府中刑務所だ。同じ工場にいたんだ。ヤクザとか、いろいろ、荒っぽい人がいる。理屈は通じない。そんな人たちに荒さんがからまれた時、よく野村さんが助けてくれたそうだ。ちょっとした言葉の行き違いから、突っかかってくる人がいる。

「お前、何様のつもりでいやがる」とヤクザにからまれ、野村さんが仲介してくれた。というケースがよくあったという。ここでは皆、「違う次元」で考えてるんだ、と野村さんは荒さんに教えたという。

大東塾の影山正治さんが亡くなったことを聞き、野村さんは興奮して荒さんに説明したそうだ。荒さんは影山さんのことは知らない。でも、野村さんにしたら、そうした思想的なことを話せるのは荒さんしかいない。他の人では「次元」が違うし、〈言葉〉が通じないのだ。

休み時間の時、落ち着きを取り戻した野村さんは、影山さんの自決について話す。「本当の右翼は、あんたが思ってるようなものではない。民族を愛し、山や川を愛す。街宣車を乗り回して企業から金を取る。そんなんじゃないんだ」と言う。荒さんは本の中で言う。

〈野村はいつになく雄弁だった。
「大川周明、北一輝、彼等のことは私よりあんたのほうがよく知っているだろう」
 私は黙って聞いていた。ヤクザ右翼と本当の右翼を混同するな。それが彼の言いたいことだった。しかし、だからといって超えられない一線が私達にはあった。
 この後、一言天皇といってくれなんて、三島のセリフでも言うのだろうか〉



東大全共闘と激論した時、三島は、「君達が一言、天皇陛下と言ってくれたら共闘できるのに」と言った。そのことを荒さんは言っている。

しかし、野村さんはそんなことは言わない。ロシア革命前夜のテロリストの話をする。2人はここで意気投合した。ロープシンの『蒼ざめた馬』の話が出る。2人とも好きだ。荒さんは、そらんじていた一節を口にする。

野村さんは、工場雑役からボールペンを借りてきて、その節を書き留めた。それは、こういう言葉だ。

「秋の夜が落ちて、星が光りはじめたなら、わたしは最後の言葉を言おう。わたしの拳銃はわたしとともにあると」



〈彼は書き留めた一節を、何度も口にしていた。
「私の拳銃は私と共にある。そうなんだ!」
 何か深いところでの野村の決意が、私に伝わってきた〉

そして、野村さんは1993年10月20日、朝日新聞社で自決する。その話を聞き、荒さんは、府中でのロープシンの談義を思い出したのだろう。その荒さんも、5月3日、亡くなってしまった。

http://kunyon.com/shucho/110509.html

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鈴木邦男をぶっとばせ!

http://kunyon.com/index.html

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11月17日、『愛国と憂国と売国』が出ます!

http://kunyon.com/shucho/111114.html


by gumintou | 2011-11-19 04:52 | 政治・経済


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