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小説  新昆類  (35-1) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

 渡辺寛之は昭和二十八年一月十七日、雪が深夜にかけて降った朝、高原山の寺山修司
寺本堂扉の前に置かれていた捨て子だった。寺の住職である渡辺日義が赤ん坊の泣き声
を聞き本堂に行ってみると綿入れのはんてんに囲まれていた男の子の赤ん坊が置かれて
いた。住職はすぐ捨て子であることに気づいた。住職は妻の恭子と相談し、まだ子供がいな
かったので育てることにした。名前を渡辺寛之と命名し日義の長男として出生登録をして戸
籍に入れた。四年後、住職の妻、恭子に女の子が産まれた。恵子と名づけた。

 渡辺日義は寺山修司寺の住職をしながら泉中学校の教師でもあった。そして塩原町に接
する矢板市泉地域社会福祉などの相談役でもあった。寛之と妹の恵子は寺山修司寺で日義
と恭子の愛情に守られ仲良く育った。その後、日義と恭子には子供ができなかった。

 東京オリンピックの翌年、渡辺寛之は泉中学校に通い一年生になり十二月末の冬休みに
なった。妹の恵子は小学三年生だった。恵子と寛之が寺の境内で石蹴りをして遊んでいる
と、下から山門の石段を登ってくる中年の男が見えた。ネクタイをして黒いコートを着た
男は、境内までやってきて、じっと寛之を見ていた。

「お坊さんはいらっしゃいますか?」と男は寛之に聞いた。

 寛之は母屋の玄関を指差した。ありがとう、そう言って男は母屋の玄関前にたち、ごめ
んくださいと中に声をかけた。母屋の台所からエプロンで手を拭きながら恭子が、はいと
答えながら男の前に立った。

「住職にご相談があってまいりました。有留源一郎と云う者です」

 男は名刺と塩原饅頭の菓子箱を恭子に渡した。名刺には有限会社有留鉄工取締役の肩書
きがあり、住所は広島県広島市安佐北区白木町大字有留125番地と印刷されていた。

「まぁ、わざわざ広島から」と恭子は名刺を見て驚いた。そして有留源一郎を土間に入れ、
どうぞと囲炉裏に腰をかけさせた。そして奥座敷で仕事をしていた渡辺日義の所に行った。

「あなた、広島からお客様です」恭子は名刺を日義に渡しながら、何の用かしらと不安な
顔をした。日義は恭子の不安を「きっと寺の歴史を聞きにやってきた人だよ」と打ち消し
た。

 有留源一郎の名刺を持ち作務衣を着た日義が土間の囲炉裏に姿を現すと、源一郎はてい
ねいにおじぎをした。源一郎は最初自分が住んでいる有留村の鎌倉寺山は高原山の寺山修
司寺と縁があるのかもしれないなどと話をしていたが、この寺に捨てられていた寛之のこ
とで相談があると切り出した。日義は子供たち聞かれてはまずいと、源一郎を奥座敷に上
がらせた。恭子は湯を沸かすとお茶を奥座敷に持っていった。そして土間に戻ると外に出
て、境内で遊んでいる寛之と恵子を確認した。寛之と恵子に、お客様が来ているので、外
で遊んでいるようにと言った。そして恭子は有留源一郎の話を聞きに奥座敷に入った。

 有留源一郎の話によると、寛之が産まれたのは、高原山の北側だった。高原山の北側は
塩原町である。高原山の中腹で、寛之の親は炭焼きを職業とし、炭焼き小屋で暮らしてい
た。寛之が産まれたのは昭和二十七(一九五二)年十二月だったが、寛之の両親は悪い病
気にかかり小屋で死んでしまった。寛之の両親を弔った炭焼きの仲間は貧しさゆえ、寛之
を育てることができない、それで寺山修司寺なら育ててくれるだろうと判断し、この寺の
本堂に翌年の一月十七日に、捨て子として置いていったとのことだった。

 有留源一郎と寛之の両親は遠い親戚であったが、交流はほとんどなく、高原山の炭焼き
の連中からも寛之の両親が死んだことは知らせてもらえなかった。塩原温泉に旅行で来た
ので、昨日、親戚である寛之の両親の炭焼き小屋を訪ねたら、廃屋になっていた。高原山
で炭焼きをしている人の小屋を探して、寛之の両親のことを聞いたら、すでに死んだとの
ことだった。高原山の炭焼き人から寛之の行方を聞いたの内容を有留源一郎は日義と恭
子に話した。

 高原山の山の民サンカが住民登録をしたのは昭和二十七年であった。それまで山の民サ
ンカは日本国民として戸籍に編入されていない。子供たちも義務教育を受けていず山の民
サンカは日本国民とは別の独自な世界で暮らしていた。有留源一郎は自分のところに寛之
の両親が死んだ知らせがこないのも理解できると話した。

 日義はありそうな話だ、うーんと唸った。でも寛之がその死んだ炭焼きの子供だという
証拠は……疑問を恭子は有留源一郎に投げかけた。右太股にやけどの跡があると炭焼き仲
間の人が話していましたが……有留源一郎は答えた。確かに……恭子がつぶやいた。寛之
の右太股にはやけどの跡があった。

「親戚の義務として、私のところで育てたいのですが……」

 有留源一郎は本題を切り出した。日義も恭子も将来は恵子が真言宗智山派総本山で修行
した僧を婿としてもらい、寺を継いでもらいたかった。寛之は高校までめんどうをみて、
東京に就職させるつもりでいた。

「いきなりそう言われましても……」

 日義は妻とよく相談をするから結論は待ってくれと有留源一郎に言った。
 
「もちろんです。今日、どうのこうのという話ではありません。私はただあの子の親が誰
であったかを知らせにまいり、私があの子の親戚であることをお伝えにきたのです。今ま
で育てていただき誠にありがとうございました。私の怠慢ゆえ、今まで来られなかったこ
とをどうかお許しください」

 有留源一郎は畳に額をこすりつけ謝り、日義と恭子に詫びた。
 
「突然来て、いきなりあの子をこちらで預かるなどと無礼な願いを言いまして……
そちらさまのお気持ちも考えず誠に申し訳ございません」

 有留源一郎の声と詫びる身体には真剣に裏打ちされた迫力がみなぎり、日義と恭子は圧倒
されていた。そのとき日義も恭子もこの人に寛之を託すしかないと判断した。

 その日、有留源一郎は深々と土間の玄関で頭を下げ、寺から去っていった。日義と恭子
の夫婦は寛之にどう説明していいかという重い課題を背負った。何よりも寛之を兄として
したっている恵子の反応が心配だった。兄と妹の関係を引き裂くことになる運命、しかし
子供たちは耐えるしかないだろうと日義は思った。

 昭和四十一(一九六六)年三月二十八日、寛之は有留源一郎に連れられ、寺山修司寺か
ら有留源一郎が住む鎌倉寺山、広島県広島市安佐北区白木町大字有留へと旅立つことにな
った。運命に翻弄され寺の山門を降りる寛之の中学生服姿は痛々しかった。肩から中学生
の布カバンをかけ、左手には旅行カバンを持っていた。有留源一郎も旅行カバンを持って
いた。寛之のこれまでの衣服や私物、勉強道具やこれまでの教科書、本類は、後から日本
通運で広島県へ、送る段取りとなった。山門の石段の両側は高い杉並だった。見送る日義
と恭子、恵子はお兄ちゃんと叫びながら山門を駆け下り、寛之の右腕を行かないでとつか
んだ。寛之は立ち止まった。寛之も肩をふるわせ泣いている。有留源一郎はそのまま山門
の階段を下りたところで待っていた。寛之は泣き叫ぶ恵子のしがみつく手を離しながら、
云った。

「恵子、しかたがないんだ。しかたがないんだ。これがおれたちの運命なんだ」
 寛之は自分にも必死に言い聞かせていた。

 恭子は山門の上から下に降りてきて、恵子を抱きしまた。
「恵子、お兄ちゃんとの別れはつらいけど、耐えるのよ。しっかりとお兄ちゃんの旅たち
を見送ってあげるのよ、寛之、つらくなったらいつでも帰ってきなさい。ごめんさい、寛
之、お母さんは、何もしてあげられなくて……」
 そして恭子は嗚咽をあげた。
by gumintou | 2006-11-21 09:52 | 小説 新昆類


混沌から


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